”君なら死ぬまで好きでいられると思う”

 若い頃見た洋画の口説き文句を思い出した。

いつか使おうと思って忘れていた。もう遅すぎると思うけどね。

”君なら死ぬまで好きでいられると思う”

一度も使えなかったということは、死ぬまで好きでいられる自信がなかったのだろうか。

いや、洋画の甘いセリフは、誠実な(と思っている)日本人には無理がある。

”カサブランカ”のH・ボガードの有名なセリフ、

「昨日?そんな昔のことは忘れたよ。明日?そんな先のことはわからないさ」

だったかな。男なら一度はうそぶいて見たいハードボイルドなセリフだが、

はたしていまどきの女性がしびれてくれるだろうか?などと、

 急ぎ足で進む強烈なスピード文化の時代に、

こんなのんきなことを考えているからビンボー作家なのだろう。

しかし、死ぬまで好きでいられるという口説き文句も、

輝く未来がある若者だから通用するセリフであり、

残り時間が少なくなったぼくでは効力どころか鼻で笑われるのがオチであろう。

だったら老人のための口説き文句を考えてみようか、いや、時間の無駄だ。

それより、老人のために歌のひとつでも作ろう。それも考えものだ。

「冥途のみやげ」という歌を作ったら、老人に大不評だった。

だれも、残り時間が少ないことを認めたくないんだな。

昨秋逝った父は、もうダメだと言いはじめてから30年生きた。

ぼくも意外と長生きしそうだから、迂闊なことは言わないようにせねば。

思考の舵を切り替えるんだ!

 21世紀がはじまったばかりだというのに、

終末思想にとり付かれたように厭世観が部屋に充満した。

思考を切り替えないと滅入ってしまう。

そうでなくても、例年より10日も早く梅雨入りしてしまったのだから。

窓を開けても湿った空気が入ってくるだけだ。

気分転換にユーチューブを開いたら、世界の終わり、とか、

人類絶滅後の地球、とか、第3次世界大戦シュミレーション、とか、

2,3日前に覗いたタイトルがずらりと並んでいる。

それらを全部ゴミ箱に送って、60年代のポップスを次々とお気に入りに登録した。

すると、どうだ!一番が完成したあと2番の歌詞が1年も作れなかった曲の歌詞が、

鮮やかに、すっきりと出来上がったではないか!

脳のアンテナやチャンネルは正直である。まっすぐ伸ばして手入れをしておかないと、

錆びたりカビが生えたりする。まして梅雨時である。

杞憂の夜

 カムチャッカ沖でM8.2の地震発生との新聞記事を目にして、

この東京で、電気ガス水道が止まった夜を想像してみた。

おりしもTVでは、大臣が地震に備えて各家庭で1週間分の食料を確保するようコメントしていた。

1日、2日なら何とかなるだろうが、食料があろうと、

電気ガス水道が止まったら、1週間暮らせるだろうか。

しかし、政府の発表は1週間は救助が来ないかも知れないということだ。

先ずは水の確保、と云っても飲み水が精一杯だろう。風呂は我慢だな。

食料は、電気ガスがないので料理は出来ない。缶詰か。

庭で枯れ木を燃やしたりすれば火事かと大騒ぎになるだろう。

鍋や米炊きは無理だな。

そこまで考えて、はたと気づいた。

ぼくの想像は生き延びているところから始まっているが、

地震発生時、何処にいるかで状況は違う。

3・11午後、ぼくは品川にいて、

中野の自宅まで歩いて帰った。

地震発生時何処にいるか分からないのに、何を考えているのだ。

多分、いや、きっと、東京に住む多くの人がぼくと同じ考えではないだろうか。

自分は助かる側にいる。

毎日シャワーを浴び、清潔な水洗トイレで用を足し、洗濯機乾燥機、ガス水道、

こんな快適な生活が巨大な亀の背中で営まれているとしたら…

亀が身震いしたら一瞬に崩壊してしまう。高速道路、海底トンネル、地下鉄、高層ビル、古いマンション…、

空が落ちるのを心配した杞憂の心境を笑えない夜、ぼくはスーパーで水のボトルを余分に2本買った。

たった2000ml 3本のビニール袋が重い。

一瞬の恐怖

 先週、電車に忘れ物をして、それが見つかった話をFACEBOOKに書いた。

友人から肩にさげたバッグを捜してゾッとしたというツィートがあった。

ぼくも、ポケットに入れた鍵を捜したことがあったりして物忘れで話が弾んだ。

 そして今朝、FACEBOOKを開こうと、お気に入りをクリックしたら、

パスワードを入れるページが開いた。パスワード?!

FACEBOOKは朝倉薫ではなく、竹内緑郎でやっている。

思いついたパスワードを入れてみたが開かない。焦った。

完全に忘れている。

 一瞬、背中から脳天に恐怖が走った。

それは、単なる物忘れについてではない。

この先の人生で、過去の記憶がすべて喪失した自分を想像してしまったからだ。

ぼくは頭を振って、その想像を振り払った。恐怖は一瞬にして消え去ったが、

二日酔いのような後味の悪い気分が残った。

ぼくはFACEBOOKに入ることを諦めて、このブログを書いている。

このブログも、メンテナンスがあったりして、ときどきパスワードを要求される。

簡単なワードなので、こちらは忘れることはない。が、いつなんどき、

脳の記憶がすべて消えさってしまうか分からない。

考えすぎだろうが、メモに残したすべて手書きの時代が懐かしい。

辛うじて、手紙は手書きで書いている。それすらも、

時々メールで済ませることが増えた。

更なる飛翔

 ひとり語りと歌を織り交ぜた少女人形舞台の宴VOL11が終わった。

今回は、一人一人の芸が問われる厳しい舞台だったので、

出演者の緊張もかなりのものだったと思う。

「幻奏の宴」と題しているが、一般の方には不親切だと一般ではない方に言われた。

ぼくはそんなに偏屈なのだろうか?

解り易く表現することが親切だとは思えない。

朝倉薫の世界観なので変え様がないということだ。

楽しいと思ってくださる方にお見せしたい。

勿論、精進しなければならない課題もまだまだたくさんある。

次回は6月下旬、ご期待ください。

下を向いてちゃ虹は見えない。

 チャップリンの名言は、解りやすく深みがある。

虹というのは、希望であったり目標であったりする。

下を向くというのは、諦めたり投げ出したりすることだろう。

努力だとか苦労だとか当然のことが大変に思えるときがある。

持って生まれた才能を磨かないのはもったいない。

百回練習してダメでも百一回目に出来るかもしれないのだ。

ぼくは自分に言い聞かせて続けている。

誰のためでもない。自分が一番やりたいことならやり続ければいい。

虹はいつも雨上がりの頭上にある。

土曜日の夜は少女人形舞台

 ミュージカルの舞台でお休みしていた少女人形舞台のライブが再開する。

今月は25日の土曜日、ライブハウス江古田マーキーにて、18時から。

今回は歌とひとり語りを中心に展開する。

出演は、いよいよ本格的活動に入った日本一の少年女優またか涼にリーダーの西本早希、

歌もパフォーマンスも成長著しい藤原未来、四月のミュージカルで一皮むけた柏木亜優美、

今回は少年役に挑戦する梁島惇子ほか、少女人形舞台に入るために生まれてきたような新人も登場。

よりプロフェッショナルの舞台を目指して今日も稽古、明日も稽古。

ユーチューブに発表したビデオクリップNAYUTA~那由多~に続く第二弾「ロストえれじぃ」

の撮影も梅雨に入る前に決行したいと思っていたが、梅雨明けになってしまいそうな気がする。

8月公演のキャストオーディションをワークショップ形式で(もちろん無料で)やりたいので、

6月上旬はそちらに没頭する。身体はひとつしかないのだから、欲張ってもしかたがない。

入梅走り

 五月二十日である。

昨夕から東京は雨模様、今朝も降り止む気配はない。

昨日、遠方から友人が訪れて、方々連れまわしてしまった。

別れ際の電車で忘れ物をした。

ホームに下りてすぐ気づき、振り返ったら電車の扉が閉まった。

駅の事務所に急ぎ忘れた由を告げると、

親切な係員が次々と通過する駅に電話をかけてくれた。

待つこと30分、電車は終着駅に着いたらしいが、

ぼくの忘れ物は出てこなかった。

紙袋には、大切な頂き物と預かり物が入っている。

仕方がないのでぼくの連絡先を伝えて帰宅した。

それから4時間は過ぎただろうか、夜半に電話が鳴った。

番号表示は見慣れない03から始まっている。

出ると、あの親切な係員の声。

「ありました。間違いないと思います。印鑑と身分証明書をお持ちください」

「ありがとうございます。明日の昼に伺います」

と、昨夜はそんなことがあり、今から忘れ物をいただきに出かける。

週末は日本ダービー、梅雨までにもう一度晴れて欲しいと思いながら。

反動、そして助走

 壁にぶつかったら跳ね返される。単純な反動である。

愉楽のあとの憂鬱。精神的な反動も肉体に負けず劣らず痛い。

押さえつけた衝動が爆発する。この反動は怖い。

平々凡々と過ごせば何事も穏便かというと、そうではない。

人間は空想する動物なので、夢はふくらむ。

晴れたり曇ったり、時には嵐にあったり、あちらこちらで反動をくりかえして生きている。

長い旅を続けていると思えばいい。

ひとつだけ、ぼくは時間の流れについて思い違いをしていた。

生まれたときに、すべての人間は死ぬことを約束されている。

だれもこの約束を破ることは出来ない。

ぼくは、この人生の時間を、滝に向かう流れだと認識していた。

それは間違いだった。時間は流れ落ちるのではなく、

大空へ飛翔するための助走であったのだ。

年齢ごとに早くなる日々の時間は、流れに身を任せるのではなく、

自らを飛び立たせるためにあるのだと、ようやく気づいた。

滝に落ちる流れなら、抗って生き延びようとする。だれもが落ちるのは嫌だ。

しかし、空へ飛び立つ助走だと思えば、早くなる流れは心地よいはずだ。

そう思うと、向かい風にも颯爽と立つ勇気が沸いてくる。

宴のあとさき

 宴ではしゃぎすぎると、終わったあとの虚脱感がなかなか離れない。

人はめぐり合って別れる。

分かりきったことだが、何ともさびしい。

少女人形舞台に小学生で参加した子が中学生になり、

中学生で参加した子が高校を卒業するという。

さあ、感傷はとなりにおいて、次の宴の支度に取り掛かろう。

宴がなかったら潤いがない。

 祭りが嫌いな友人がいるが、彼はきっと祭りが嫌いなのではなく、

祭りのあとの寂しさが嫌なのかも知れない。

世界中に祭りと戦争があふれて、地球は今日も廻っている。

ぼくは小さな祭りの支度をする。