寝る前だから夜食だろうか?

 寝る前に食事をするという悪い癖がある。

悪い、と書いたのは母がそう言っていたからだが。

自分では少しも悪いと思っていない。

茨城の島田蕎麦というのをいただいたので、

早速、寝る前に食べることにした。

江戸時代は保存技術も無かったので、蕎麦は収穫した秋から春先までの食材だったらしい。

今は、干し蕎麦を湯がけばいつでも食べられる。

深底の鍋に湯を沸かし、その間に具を考えながら蕎麦つゆを作る。

今日は、鰹の削り節に砂糖と塩、酒と醤油をさっと沸騰させて軽めのつゆ。

冷凍庫に大正えびがあったので、2本天麩羅に揚げる。

蕎麦にはトマトが最高なのだが、今日はない。トマトを崩れそうな程度に湯がいて、

つゆに浸すと、何とも言えない食感で蕎麦と実に相性が良いのだが。

 山芋つなぎの玄蕎麦は強火で5分以内に茹でる。すばやく冷水でもみ、水を切ってざるに移す。

たっぷりとつゆに浸して、からっと揚げた海老といただく。

睡魔もうっとりとする至福のひと時である。時計をみればもう朝の八時を過ぎている。

今日は昼からNAYUTA~那由多~の歌録音。先日伊豆の山奥で撮影してきたPVがいよいよ完成に近づく。

島田蕎麦、ご馳走様でした。

1979年の夏

 1979年の夏、ぼくはパリで大切な休暇を一週間台無しにしていた。

着いたばかりのホテルのプールに飛び込んで顔面強打して、

プールの水を血に染めてしまったのだ。

幸い脳に障害はなく、一週間の絶対安静を医者に言い渡されて、

おとなしくホテルのベッドで寝て過ごした。

 そのとき読んだ”セバスチャン・ジャプリゾ”の「ウサギは野を駆ける」は、

忘れられない一冊となった。

マルセイユの生まれだと聞いて、わざわざオールド・ポートに出かけたこともある。

 気取った文体が何とも言えず好きだった。小説というより映画のシナリオを読んでいるようだった。

ぼくは戯曲を書くようになって、何度かセバスチャン・ジャプリゾの文体を真似したことがある。

けれど、一度もうまく書けたことがない。何事もうわべだけなぞってはダメなのだ。

自分は自分でしかない。

すばらしい歌手にめぐり合って、ぼくの作った楽曲を歌ってもらうことになった。

個性というのは、その人の生きる姿勢でもある。歌はその人の生き様だろう。

作ったぼくの人生も一緒に歌に乗せてもらえるような、そんな期待に胸が膨らむ。

阿佐ヶ谷JAZZSTREETS

 少女人形舞台に”陽翳り館のマダム”としてご登場いただいているジャズボーカリストの三森万輝さんの歌を聴きに、

阿佐ヶ谷に行ってきた。演奏は稲葉国光トリオ、ジャズ界の殿堂から降りていらっしゃったような方々である。

トリオといっても、ギター(田附靖)トロンボーン(粉川忠範)と、稲葉御大のベースである。

いったいどんなステージが繰り広げられるか、予想もつかない組み合わせである。

 そこは陽翳り館のマダム、只者ではなかった。この世のものとは思えぬ枯れた演奏に怯むことなく、

楽しげに、堂々と美声を聴かせてくださった。

ラストソングの”ワイルド・イズ・ザ・ウインド”は、圧巻であった。出来るなら、

次はピアノの伴奏で聴いてみたい。ジャス界の新星、と謳われているが、

ぼくは、三森さんにジャンルを超えて活躍して欲しいと、切に願うばかりである。

それにしても、阿佐ヶ谷は贅沢だなあ、大御所から若手までこんなに集めて!

街中をジャズに染めて楽しんでいる。

駅を降りると、マップとプログラムを配布しているので、お時間のある方は是非!

明日まで開催されるようです。

ハードボイルドは鼻梁を膨らませない!

 

「じつは、男女交際したい子がいるんだ」
と、言ったら、絢子は笑った。
同級生の彼女が64歳を迎えた誕生祝いの席で打ちあけるべきことではなかった、と、ぼくは後悔した。
という青春小説の書き出しを話したら、Tくんは黙って下を向いた
ぼくは、腕組みをして、深くため息をついた。すると、

「ご心境、お察しします」Tくんが潤んだ目でぼくを見つめて言った。
「ううん、困ったよ。大井が始まってるんだ。今日はマイルグランプリでね」
ぼくが苦渋の顔でそういうと、Tくんは大笑いして言った。
「その話、いただいていいですか?父親の葬儀が済んで落ち込んでいる男に同情したら、競馬の心配?いや、じつにバカバカしい」
そして、辛子蓮根をバリバリ食った。
「人生なんて、バカバカしい話で満ち溢れている」
ぼくは、気取って言った。鼻梁が膨らんだので、恥ずかしかった。
 銀座”よっそう”の辛子蓮根は、辛くない。

一杯の珈琲から

 雨の夜に銀座の裏通りにある珈琲だけを飲ませる店L’AMBREで、

一杯の珈琲を飲むと、懐かしい思い出ばかりか苦く切ない過去がよみがえる。

 98歳になられるオーナーに、

父が同じ歳で、ぼくが店を開店された1948年の生まれです、

と告げたのはこの夏の日のことだった。

オーナーは微笑んで頷いてくださった。

憧れの野球選手に会った少年のように、

ぼくは緊張していた。

店に出られるのは月に1,2度の豆を挽く日だけだとうかがったことがあったからだ。

あの夏の日から数ヶ月、2012年10月14日、父は98歳で帰らぬ旅に出た。

会えぬままに、最期まで、夏に帰ると書いたぼくからの手紙を読み返していたと聞いた。

「…百歳に手の届くところです。もうひとふんばりして気力をとりもどしましょう!

また一緒に”鰻”を食べましょう!では、再会を楽しみに!

2012年4月5日 御父上様へ 愚息より」

何と能天気な手紙だろう。

真っ先にもらった父の遺品がぼくの手紙の入ったセカンドバックだった。

 昨夜の雨は殊更重かった。

生き逝きて秋

 桜 満開の春に母が逝って13年目、

金木犀の香り漂う秋に、父が逝った。

通夜にも間に合わない喪主だったが、

父の遺言だったらしい菩提寺での葬儀を終えることが出来た。

98歳で矍鑠としていたので、突然の訃報が信じられなかった。

熊本へ向かいながら父に手紙を書き、棺に収めた。

一緒に暮らしたがっていたと親類縁者に言われたが、

それは後の祭りというものだ。

家路に着くと、宵闇に金木犀の香りが漂っていた。

今は心が重い。

ぼくに健康法を訊かれても…

夜が白む頃床につき(ほとんどソファーにゴロ寝)、

昼時に起き出して、

朝風呂ならぬ昼風呂で汗を流し、

夕闇が迫る頃ようやく活力を思い出すぼくに、

健康法を訊ねるのはどうかと思うが…

 真面目に答えよう。

何となく続いていることを2,3あげれば、

〇歯を磨く間、約3~5分間、片足立ちをしている。(一日1回か2回)

〇歩くとき、意識して歩幅を7センチ広くとる。

〇背筋は強いほうなので意識しないが、歩きながら腹筋は気にする。

〇人生譲れない席はない、と気付いた日から気持ちは楽になった。

(しかし、健康には良いが、ビンボーになった)

 健康=貧乏、とは単純すぎるが、好きな仕事や遊びに熱中するのが一番じゃないかな。

木枯らしが来る前に…

 木枯らしが来る前に、やっておきたいことを日記帳に羅列してみた。

 夏に出し忘れた暑中見舞いをどうやって出そう…

 ダンボールの中で何年も眠っているレコードと書物の処分…

 ”ガトーのこもれび”を画廊に売りに行こう…

 夏物の洋服と下着の処分…、などとかいていたら、

 遠い昔、ヨコハマのHOTELに忘れたマフラーを思い出した。

 山下町のカフェで知り合った異国の青年は、フライング・ダッチマンだったかも知れない。

 ぼくはその頃、サンジェルマン伯爵をあれこれ調べていて、山下町に架空のガラス工場を作って遊んでいた。

 少女人形舞台のステージが渋谷のメリーココから池袋の鈴ん小屋に移る。11月23日には、もう木枯らしが吹いているだろう。ぼくはその後旅に出るつもりでいたら、12月に舞台出演のお話を頂いた。

 木枯らしが来る前に、いちどヨコハマを彷徨したいと思っている。

 

サナギに眠る妖精~澤田樹里亜~

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 少女人形舞台の主題歌でもある”NAYUTA~那由多~”を歌うのは、純粋少女でなくてはならないと決めていた。劇団女優西本早希と創り始めた少女人形舞台に、その純粋少女がやってきたのは冬の冷たい風の吹く日だった。あれから8ヶ月、13歳の少女は9月に14歳となり、その純粋性に更に磨きをかけ、NAYUTAを歌うことになった。

 澤田樹里亜のボーカルに西本早希のコーラス、伏見梨沙の人形が加わり、NAYUTAの歌と映像がもうすぐ完成する。限りなく美しい歌と映像を創りたい。その熱い想いにキャストもスタッフも心をひとつにして頑張ってくれた。森と湖、小鳥のさえずり、生まれたての風、柔らかな陽射し、撮影中、あまりの美しさに何度も涙がこみ上げてきて困った。皆には空模様を心配するふりをして天を仰いだが、ぼくは涙をこらえて天の恵みに感謝していたのである。

 澤田樹里亜が本当の女優になるのは数年後だろう。今は、まださなぎの中に眠る妖精である。だからこそ、NAYUTA~那由多~は、純粋少女の限りなく美しい歌と映像をお届けできると確信する。編集作業が終ったら、youtubeで発信する予定です。ご期待ください。

 

”昨日”は、ビートルズが”ラブ・ミー・ドウ”でデ・ビューして50周年ですと!

 50年前、ぼくは14歳だった。世界中の’48年生まれは、最も多感な思春期にビートルズの洗礼を受けたことになる。第二次世界大戦が終結して3年目、最も出産人口が多かった年だ。

 流行も消費も、文化も政治も、良くも悪くも、50年をリードしてきた。そして、何一つ責任を取ることなく、闊歩してきた。”菅直人”が700万人いると思って間違いない。ぼくらを導いた教師も親も、敗戦で自信を失くしていたことがひとつ。自由主義と共産主義が真っ向から対立する時代に、くだらない思想が掃いて捨てるほど生まれたこともひとつだろう。他にも原因は山ほどあるが、問題の解決にはならない。三つ子の魂百まで、だからだ。懺悔に何の意味があろうか。

 拙作「男たちの日記」で、ぼくは書いた。戦争ごっこに破れた少年たちのリーダーに、一番の弱虫が言う。

「しげるちゃん、どうやって責任とるの?」

リーダーのしげるは、荒波の打ち寄せる断崖絶壁に立って、一歩踏み出す。

「おれは、みんなに背中を向けて立てる。誰かに背中を押されてもいい。飛び降りろというなら、

ここから飛び降りる」

 岩場に波の打ち寄せる響き、強い風が吹き、足を竦ませて眼を閉じる少年たち。

 しげるは落ちて死んだ。14歳の死、自ら飛んだのか、誰かが突き落としたのか、15年後に集まった少年たちのなれの果てが、その真相を究明しあう物語だ。

「どうやって責任とるの?」

ぼくらはいつも背中に突きつけられていることを忘れてはならないのだ。