オリンピックの夜は更けて

 遠く離れた国でオリンピックが開催されると、当然、実況中継は深夜になる。ぼくのように昼夜逆転の生活に慣れている人間には差し支えないが、昼間働いておられる方には寝不足の夏となるのだろう。

 4年に一回の祭り事、豊かな国もそうではない国も、誇りを懸けて戦う姿は万人を熱狂させる。様々な国の国旗を見たり国歌を聴いていると、普遍的なものが見えてくる。

 それにしても今日の暑さにはマイッタ。赤坂と高円寺、二つの芝居を観に行く約束をしてしまった。所謂ダブルブッキングというやつだ。流れから高円寺「明石スタジオ」の、劇団員片山竜太郎出演作品を選んでしまった。終ってから赤坂アクトシアターの友人に電話をいれて謝った。明日の昼公演に間に合えば、出かけることにしよう。

 明後日は青山草月ホール公演「足寄より」、こちらは脚本で参加しているので、公開ゲネプロを観させていただく。

 さて、オリンピックである。戦争やお国の事情に翻弄されることもありすべてが美しいばかりではないだろうが、少なくとも人類が平和を模索している証ではある。ロンドンが無事であるよう祈ろう。

 しかし、仕事がはかどらないのは”祭りのあと”で、まずいので、ほどほどに熱中しよう。今、友人Yから「彼女にプロポーズする」と、メールが来た。成功を祈る!と、返しておいた。相手は19歳らしい。ほほえましい限りである。友人Y? はて何歳だったっけ?ぼくより一つ上じゃなかったかな? 流行なのかな、歳の差拡大婚…。

 

生い茂る夏草と朽ちた廃材の庭に、こもれびは今日も美しい。

 2001年に上演した0021~僕は君の為に雨を降らそう~の脚本を改稿している。思い出が詰まりすぎていて、台詞ごとに感傷的になる。銀行強盗をした親友が刑期を終えてあと2ヶ月で出所する。10年間も大切に預かった金を、出所間際に使ってしまう男の話。女が絡んだ厄介な話だが、この作品にかかわらず、書き上げて上演すると、妙に符丁の合う事件が現実に勃発する。「エボダイ浮上せず」では、ロシアの潜水艦沈没事故、「スタント」では、ジェットコースターの人身事故、「ガラス工場にセレナーデ」では、毒殺事件、などなど。勿論何の関連性もないが、上演中に舞い込んでくるといい気持ちはしない。

 今、うなぎの減少が話題になっている。偶然、レイチェル・カーソンの「潮風の下で」(岩波現代文庫)を読んでいる。13章にうなぎの一生がドラマティックに書かれていて、感動する。山あいの川から海へ産卵に戻る雌うなぎの旅は、過酷で長い。今度うなぎを食うときは、味もまたひとしおだろうと思う。

 庭の朽ちた廃材は芝居のなごり、夏草は遠慮なく生い茂る。ぼくは今日も、暑い夏を楽しみながら、原稿を書いたり本を読んだり、相変わらず何とか生きている。今夜はニコニコ動画”アイドル夜の読書会”生放送。前回から一番先に読まれるようになった。「こもれび物語」早くも第二章の四回目である。よろしかったら21時開始です。

時間の経過を、それも残り時間が少ないことを、祝ってもらって嬉しいかと言われたが、ぼくは嬉しい!

47442411_1711979122_161large.jpg少女人形舞台のDOLLたち(7月21日)

 誕生日を祝ってもらうのは、いくつになっても嬉しい。

と、ぼくは思っているのだが、死ぬまでの時間の経過を祝うなんてとんでもないと思っている捻くれ者(ぼくからみれば)もいる。

 今年の夏は64回目の青空。仰いだ空に同じ雲はいちどたりともなかった。今年も、新鮮な青空と湧き上がる雲に涙するのだろう。

 母と歩いた山道、父と泳いだ海、姉と走った校庭、妹を背負った河、…見上げた空はいつも眩しかった。

 一人で見上げた夏空の孤独は、ことばに出来ない。思い出すだけでも、涙があふれる。

 劇団のユニットで始めた少女人形舞台が歩き出した。やがて一人歩きを始めるだろう。そのときぼくは、また言い知れぬ孤独に身をさらすのだ。それでも、創り上げたい形がある。歌がある。舞台がある。いまはひたすら物語を書き続ける。

 

勝手に歌うのは構わないが、販売するのだったら連絡くれてもいいだろうと思ったりする。

 昭和56年につまらない理由で脱会した日本著作権協会(JASRAC)に、三十数年ぶりで再入会した。それで今、毎週日曜日に、この30数年間にリリースされたぼくの作詞・作曲の作品届けをセッセと書いている。

 カラオケに、ぼくの知らない歌手の名前で、ぼくの作った歌が入っているのを知って驚いた。何でも、楽曲を管理する出版社が許可すれば発売出来るらしい。アマチュアが歌ってくれているのなら微笑ましいが、プロ歌手が商売にするのなら一言作家に連絡くれてもいいんじゃないかな、と、思ったりした。そう、一言「あんたの作った歌、歌って商売にするから」でいいんだ。そんなことが幾度かあったり、昔のレコード音源をを懐かしの何とかで発売してメーカーから何の連絡もなかったりしたので、スタッフが著作権協会に申請してくれた。

 朝倉薫、おぎひろし、竹内緑郎、など、いろんなペンネームで作詞や作曲をしている。よくもこんなんに作ったものだと思いながら、作品届けを書いている。今週で100曲分を書き終えたが、まだ半分以上ある。思い出せない曲もあって、例えば「団地の団ちゃん音頭」なんて曲を書いているらしいが、譜面が書けないでいる。横文字の作詞もあったりして、新鮮に驚いている。作曲にミッシェル・ポルナレフなんてあって、ああ、訳詞をしたことがあった、などと、新鮮な感動もある。秋口までには過去の曲は申請し終えたい。

 ニコニコ動画の朗読会台本も、早くも第二章のその五話に進んでいる。毎週6000字の物語を書くのも、マラソンを走っているようで、なかなかゴールが見えない。これも、道程を楽しむほかない。何より励みになるのは、面白かったとの感想。

少女人形舞台幻奏の宴第五頁の幕がおりて…

 HOTELサクラフルール青山のラウンジメリーココで始めた幻奏の宴、今回から昼夜2回公演となったが、大盛況で幕をおろすことが出来た。午前中のリハーサルから豪雨となって、ふと、密かに雨女(UME)さんがお忍びで観に来てくれるのではないかと思った。

 ある方に、”少女人形舞台のショーは、コンサートでスタンディングしないで聴きたい客が癒される空間ですね”と、感想を頂いた。嬉しいお言葉です。また、ある方には、”拍手しなくてもよいので疲れない”との感想も頂いた。これも嬉しいお言葉です。今回も、ご来場くださいましてまことにありがとうございました。過分な差し入れ深く感謝します。出演者の皆さんもお疲れ様でした。次回の稽古もすぐ始まります!

 人形と一緒に居眠りしながら、夢でも見ているような時間を過ごして頂くのが一番だと思います。いつかの夢で見たような、そんな懐かしい、時間と空間を提供するのが少女人形舞台です。

 さて、次回のタイトルは「夏の終わりのミステリー」、朗読劇の脚本が7本、ショートプレイを2本、そして、歌を10曲、熱中症にかからぬよう水分を取りながら、7月中に書き上げる予定である。ずれ込むと8月は地獄になりそうなので、気合いを入れて取り組もう!

 で、雨女さんはお見えになっていらしたのだろうか?夜公演が終ると、雨はすっかりあがっていた。

 

少女人形舞台INメリーココも5ヶ月目になって、

 7月21日の少女人形舞台。稽古も白熱化してきた。新しく参加してくれるDOLLは、松上祐子嬢と由杏あゆ嬢の二人。稽古を重ねるにつれて、少女人形舞台の世界に入り込んでくれている。

 松上嬢には、DOLLパフォーマンスだけでなく、ソロの歌が2曲、新作の朗読、そして、満月あいり嬢とのショートプレィにも挑戦してもらう。それに加えて、あの、開場時の、30分間DOLLパフォーマンスにも参加してもらうことになった。稽古場での笑顔があれば、彼女は難なくクリアしてくれるだろう。由杏嬢は、メリーココで初めてのギター生演奏での弾き語りに挑戦する。二人とも初参加とは思えない仕上がりが期待できる。

 勿論、満月あいり嬢、澤田樹里亜嬢、おなじみ伏見梨沙嬢、努力のDOLL吉川沙緒梨嬢に梁島惇子嬢、永遠のゲスト萱沼千穂嬢とまたか涼はノンマイクでの歌唱に挑戦する。出演だけでなく振り付けから衣装構成まで仕切っている西本早希も、小さな身体で頑張っている。今回でメリーココも5回目となるが、確実に理想に近づいている。

 稽古中、嬉しいメールが届いた。小学生の頃プチ・ドールで参加してくれていたM嬢がお母様と観劇に来てくれるという。中学生になって芸能活動を休止しているが、DOLLで復帰してくれたら嬉しい。

 是非、サクラフルールホテル青山1階メリーココへ、お越しくださいませ!お申し込みは朝倉薫演劇団HPまで。

 

人が歴史に学ばないのは何故か?それは眼を閉じるからだ、という説を考える。

 数億年以上の長い年月を生き抜いてきた”人”なる生き物の、その根本をなすのは”卑怯者”だからだという説がある。なるほど、生き延びる為に強く刷り込まれたDNAが”正義”とか”正直者”だったら、とっくの昔に人は滅び去っていたのだろう。闇にひそみ、死肉を喰らい、裏切り、寝返り、前言をひるがえし、か弱い命を脈々とつないできたのだ。人はなんと哀れな生き物だろう。

 アイヌの古い伝承に、フクロウは悪人に対峙すると眼を閉じる、と言う説がある。それが真実か俗説かは抜きにして、見て見ぬふりとか、臭いものには蓋、とか、根本原因を明らかにしない習性が”人”の生き延びるための特性だとしたら、これは始末が悪いと思われる。巨悪を暴いたり、正義を声高に叫ぶと、暗殺されたり罠に嵌られたりする。又、する側はそれを嬉々と楽しんでいたりる。

 ”人”の生き様は三文オペラそのものだ。

 人が歴史に学ぶことが出来たら、政治も宗教も、もしかしたら犯罪さえこの世にはなくなるだろうから、小説も映画も味気のないつまらないものになってしまうかもしれない。ミステリー映画やテレビドラマは愚か者がいるから成り立っているのだし、ぼくはセッセと哀しい舞台劇を書いている。

 ♪眼を閉じてたら生きて行けない、本当にそれは悔しいだろうが♪

と、ぼくは歌ったが、実は眼を閉じていたから生き抜くことが出来たのだとしたら、考え直さなければならない。しかし、”卑怯者”だから生き延びられたというのは、説得力はあるが、何か釈然としないな。

 生き延びることに意味があるのなら、歴史に学んでより快適な生き方が出来たほうが良いように思うけどね。(快適というと誤解されるかもしれないが、文化的とか便利さではない、平和で穏やかに、という意味でね。)劇作者というのに、自分の存在意義を否定するような考えを目の当たりにすると、揺れてしまうね。

 ”人”が、混沌とか荒廃を望んで、よりたくましい”卑怯者”を目指しているのなら、本当に哀れな生き物と思うしかないね。

「我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈った山中鹿之助とかは、正しいDNAの継承者なのだろう。そういえば、アラモの砦のデビー・クロケット、源義経、赤穂浪士、ジャンヌ・ダルク、”人”は、大好きだものね。

 軍靴の響きに血肉沸き躍らせる輩が増えているらしい。それは、演劇だけの世界であって欲しいと強く願う。ぼくは注射も痛いからイヤだ。中学生みたいな思考でゴメンネ。

 7月21日の少女人形舞台で「嘘つきの森」という童話を書いたので読んでもらう。フランスの、海に最も遠い山の村に住む時計職人の息子の話。朗読はまたか涼。楽しみです。

又、不幸はぼくが背負うと言ってしまった幸せそうな場所の居心地に、つい…

20120706_214005.jpg  再会の喜び         p2012_0708_121413.JPG祝福の慶び

  人気タレントの妹で周囲から期待されてぼくの劇団に通っていた女の子が、十数年の時を経て、幸せそうな母親の顔で現れた。ぼくに娘がいたら、きっと彼女くらいの年頃だろう。子供が生まれたら”おじいちゃん”と呼ばれるのだ。ま、それは一夜の妄想だが…。それにしても、本当に幸せそうでよかった。

 その翌日、16歳からぼくのところに出入りしていたAくんの結婚式に呼ばれた。それも、主賓で祝辞を頼まれた。×が二回もあるぼくは、反面教師にしかならない。つい、不幸は全部背負うから、皆さん幸せになってください!などと、たわ言をほざいてしまった。主賓の挨拶としては、品も格調もなかったが、Aくんのお父上がくだけた方だったので、グタグタの祝辞も笑ってお許しいただいた。そのAくんも35歳になったという。皆、それぞれの道をしっかり歩いているのだ。

運動神経は母親の遺伝子らしいと言ったら、文章神経はどうなんでしょう?と切り返された昼飯の後。

 今日は、鍋屋横丁で、脚本家としてライバルの麻草郁くんと昼飯を一緒した。食後の珈琲を飲みながら、”運動神経は母親から受継ぐらしいよ。ほら、キミ、外野フライをオーライといいながらおでこでボールを受ける人でしょ?”と、言ったら、なるほど、と納得したようだったが、すぐさま”ひどい文章神経はどちらから受けつぐんでしょうかね?”と、切り替えされた。確かに、ぼくの文章は彼の足元にも及ばないほどひどいのは自覚している。

 しかし、ト書きと台詞だけの戯曲から、今、朗読劇の台本を書いている。少しは上手くなったのではないかしらんと思っているのだが、運動神経と同様、致命的な欠陥があるらしい。ぼくも、薄々は見えているが、努力ではどうにもならないとしたら悲しいなあ。文章神経の達者な麻草郁くんが少し羨ましい。運動神経なら負けないのだが、というと、”筋肉で文章書くわけじゃないでしょう”と駄目押しされた。

 ニコニコ動画の「こもれび物語」第二章に入りました。おもしろくするので、是非観てください。毎週水曜日21時から、こもれびは21時半あたりから始まります。”夜のアイドル読書会”がタイトルで、伊藤優衣嬢が朗読しています。

 

それぞれが自分に似合う心の宝石を探せるといいね

 最近流行のボカロ曲を、”みんな同じに聴こえる”と嘆く人がいる。そういえば、数十年前、”演歌ってみんな同じに聞こえる”と嘆いた人がいた。数千年前も、老人は”今の若い者は”と嘆いていたらしい。

 みんな同じが大好きなくせして、人間てホントに勝手だね。クラシック界からあんなの音楽じゃない!と言われてた流行歌の人が、ボカロ曲を、あんなの音楽じゃない!というのは”ちょっと待てよ”だね。

 昨日、Kさんの紹介で、業界の経験も実力もある大先輩の方にお会いした。ものすごく柔軟な思考の方で、共感することが多かった。と、同時に、鋭い指摘も受け、反省するところも少なくなかった。

 時代は流れてゆく。何処まで流れるのかわからないが、演歌もボカロも、共に時代を共有していることは確かなのだ。そして、それが共に流れてゆくものであることも。