エアポート

 昨日のブログに「相変わらずまだ夢見たいな事を考えているんだな」と、大人の方から言われた。また、相談事をしに来た兄弟のいない年下の友人に「同じことを考えてるんですね」と、恥ずかしそうに言われた。ハワイの伯父さんの遺産が転がり込んで来たら、とか、有りもしない話で盛り上がったが、僕は力不足で年下の友人の相談に乗ってやることが出来なかった。

 哀しさが尾を曳いて、朝になり、僕は旅に出ようと羽田空港に行った。空港に着いて行き先を探した。国内、国外、羽田からは世界中へ飛び立てる。しかし、僕のコートのポケットには、帰りの電車賃があるかないかのPASUMOが入っているだけだった。パスポートもなければ、カードも小切手もない。航空券売り場に並んでも、どうなるわけでもない。「南半球に行きたかったが、ま、仕方がない。今日は帰るとするか」と、僕は嘯いて羽田空港を後にした。一人でよかった。誰かを誘ったら、確実に以後の付き合いを断られただろう。

 エアポートは旅立つところだ。メトロに揺られながら考えた。あの世へ旅立つエアポートがあるとすれば、それは何処にあるのだろう。そもそも、あの世なるところを信じていないくせに、僕はやたらと物語に書く。まるで唯心論者だと勘違いされるほどだ。母もまた、唯物論者のくせに、熱心な浄土真宗の門徒で、先祖供養やお寺の奉仕は欠かさなかった。そしてあっさり旅立ってしまった。劇団員にはパスポートを切らすなと注意しておきながら、僕はパスポートの更新に行きそびれている。手厳しいメールが来た「プライドは作品にかけてください」この言葉を僕は宝物にしよう。

兄と弟

 僕には兄も弟もいない。なのに危機がおとずれると、兄や弟を夢想する。有能で権力を持った兄が、困った奴だなと言いながら陰で支援してくれるのを思う。体力があって資産家になった弟が、兄さん使ってくれよと大金を振り込んだりするのを思う。だが、そんな、子供じみた虫のいい話があるはずもなく、夢にもでてこない。

 ”デュアルハーツ”という戯曲で、いるはずもない弟を体内に住まわせた姉の話を書いた。”犬の妹”は兄と妹の話である。”裸月物語”は姉と弟の話。そういえば、兄弟、姉妹の話は、思い出せない。書いてないんじゃないか?夢想するばかりじゃ勿体ないので、こんど兄弟の話を書いてみよう。真夜中に、原稿が進まず、書棚の掃除をしていると時間が止まったように感じる。朝の来ない夜はないはずだが、夜がこのまま続くような気がする。少し背中が寒い。

 

AUTAMUN TWILIGHT

刻は闇に溶けて、やがては全てが虚無となる。ヴァレリィの捧げし美酒一滴の虚無への供物を、僕の喉に流し込んで旅立とうか。

 深夜、脚本書きに取り組んでいると、突然、作品とは関わりのない詩が浮かんでくる。中井英夫の傑作「虚無への供物」を読了したのは、1969年の秋も深まった、ちょうど今宵のように月を雲が覆い隠した肌寒い夜であった。生意気にも推理小説を書く気でいた僕は、躊躇いなくペンを折った。’62年の乱歩賞に前半2章を送って、それとは知らない乱歩に絶賛され、戸川昌子、佐賀潜に続く次位になったエピソードは推理小説ファンの語り草になっている。

 小説書きを諦めた僕は、あれやこれや経て42歳から芝居を書き始めた。その原点を忘れたとき、書いた戯曲が迷走をし始める。「半蔵」は、『幕末英語塾」「幕末エンジェル」に次ぐ2年ぶりの新作時代物である。あっというまに書き上げるつもりであったし、自信もあった。ところが、書きあがるどころか、迷走を始めた。慢心である。後藤や真一に申し訳ない。僕は初心を忘れ、片手間で書こうとしていた。芝居はライフワークと公言してきた僕に、片手間の仕事が出来る時間はないはずだった。歌も同様、残された大切な命の残り火なのだ。刻はAUTAMUN TWILIGHT。

彷徨神楽坂

asakuralive1.jpg 神楽坂は、湯島、横浜山手に並んで、僕の住みたい日本の街ベスト3である。先日、12月のイベント開催の会場契約に神楽坂にある音楽の友ホールを訪ねた。写真の撮影は杉本喜公氏による神楽坂彷徨と題した”竹内緑郎ライブ”宣伝用の1枚。路地を抜ける猫でも見ているのだろうか、穏やかな顔をしている。幼少の頃から、写真を撮られると、間抜けな顔か眉間に皺を寄せた厳しい顔の二通りしかなかった。この歳になってようやくカメラを敵と思わなくなったということだろうか。

 で、そのライブだが、12月18日土曜日19時より、渋谷の246沿いにある”さくらフルール青山”というホテルのラウンジが会場となる。12月1日に予約が開始されるようなので、劇団HP、またはさくらフルールホテルHPをご覧いただきたい。ポストカードが出来たら、出来る限りご案内しようと思っている。ゲストに先日お世話になったオールラウンドギタリストのぺぺ田代氏を迎えて、懐かしい時代がよみがえる楽しいライブを企画している。ご期待ください。

 タイトルは”竹内緑郎さくらフルールの夜”VOL1、演奏竹内緑郎と旅行かばん、コーラス少女人形舞台、チャージ¥2000円(飲食代実費)、奥にバーカウンターのある洒落たホテルです。舞台「僕のマリィ」の記者発表会に使用させていただいたご縁で素敵な展開となり、何だか夢の中の出来事のようである。スタッフや多くの方のご好意に支えられて生きていることを実感している。めぐり合いが人生を織り成してゆく。不思議な流れに今は身を任せている。

木漏れ陽に居眠り

 酉の市が過ぎると、年の瀬が近づく。今年も二の酉の前夜祭に劇団員と熊手交換に行き、花園神社に参拝してきた。参拝の後、明治通り沿いで60年も続く喫茶店”檸檬”で、話が弾んだ。僕は翌朝に健康診断を控えていたので21時以降飲食が出来なかったが、楽しくてなかなか席を立てなかった。来春の在団10周年記念公演を迎える後藤享が張り切っている。延ばしてもらっている脚本ももうすぐ脱稿予定だ。

  と、言いながら、昨日は病院から帰って、クラプトンの”枯葉”を採譜しながらギターで歌っていたら面白くなって、レターメンやらマイケル・フランクスやら、ユーチューブを検索して遊んでしまった。今日も朝から天気が良いので、頚椎の具合も穏やかでギターの調子も良い。思わず居眠りをしてしまった。

 

 

風の女

 中野新橋の神田川に架かっていた赤い欄干の橋が、河川工事で跡形もなく消えた。おそらく、そのことで感傷的になったのが今朝の夢の原因だろう。

  駅を出て赤い橋を渡り、坂道を登ると途中にお寺がある。道路から墓石や卒塔婆が見えるが、怖がりな僕は、雨の夜などなるべく見ないように急ぎ足になる。2,3日雨が続いて、相変わらず頚椎の痛みに耐える日々だった。独り暮らしの僕の部屋に珍しい来客があった。7年前に亡くなった伯母と5年前に亡くなった妻だった。二人は、散らかった僕の書斎を競うように掃除した。5年前に亡くなった妻は、80年前に父の初恋の人だったらしい。伯母は、そのことを得意げに僕に打ち明けると、にっこり笑って庭に浮かんだ。一陣の突風が吹いて、伯母を大空へ舞い上げた。伯母の身体は、風に溶けて消えた。

「まだ、行かないで!」僕は、エプロンをたたんでいる5年前に亡くなった妻で80年前に父の初恋の女性に声をかけた。彼女の顔が映像の静止画面のように止まった。そして、僕の目の前で、彼女は跡形もなく、風になってしまった。胸の中の砂丘が、また広がった。

BOB DYLANの夜

 ”さくらフルール青山”というお洒落なホテルが渋谷のR246沿いにあるのをご存知だろうか。前回公演「僕のマリィ」の記者発表会にお借りしたご縁で、オーナー、社長、マネージャーさんまで観劇にお越しいただいた。ホテルのラウンジではバンドや歌手のライブも催されている。昨日、制作の杉本氏とお訪ねして夢のような話で盛り上がった。

  夕方、いまや劇団制作になくてはならない活躍の湯浅ますみさんからメールが。六本木ヒルズで開催中のBOB・DYLAN絵画展にお誘いいただいた。早速、杉本氏と六本木に向かった。実を言うと、ヒルズが出来た時の派手なキャンペーンやその後の事件などで、東京では足が向かない場所だった。案の定、僕も杉本氏もヒルズの地理に疎く、うろうろと彷徨った。その間、劇団の芝居や僕の活動についてしっかり話が出来たので、無駄ではなかった。

 合流してBOB・DYLANの絵画展を覘いた。いずれもたいそうな値段がついていた。芸術の価値は、観る者聴くものが決める。絵画には手が出なかったが、パンフレットは思わず買ってしまった。1962年、BOB・DYLANがファーストアルバムを発表した年、僕は14歳だった。従兄弟のクラシックギターをCのコードでかき鳴らしたら、ギターはそんなに乱暴に弾くもんじゃない、と叱られた。その2年後、僕はYAMAHAのFG・150を父に買ってもらった。何でも失くしてきた僕が唯一失くさないで、今も手元にあるフォークギターだ。♪ハーメニーローズモスターマーンオーキンダーン♪ 少年の頃、必死で耳から覚えたデタラメ英語が懐かしい。あれが、サティスファクションだったんだ!?……遅いよね、山ちゃん。

竹内緑郎の日

 自由学園明日館の講堂は、さすが大正10年、あの高名な建築家ハロルドロイド氏の手になる風格と気品にあふれた佇まいだ。重要文化財というのも頷ける。こんな素敵な会場でコンサートが出来るぺぺ田代氏とは何ものだろうと思いながら控え室に入った。昨日11月14日は、久々に竹内緑郎としての1日だった。

 コンサートの中頃、ぺぺさんに紹介されてステージに立った。客席から暖かい波動が僕を包み込んだ。見回す先にあるお客様の笑顔が、嬉しかった。顔見知りの方も、初めてお会いする方も、皆さんの笑顔が僕に歌うことを許してくれている。「さあ、歌ってくれ」笑顔がそう言っているように思えた。熱いものが胸にこみ上げて来たが、僕は歌うためにステージに立っている。ぺぺさんのギターのリードで「ポケットの夢」を歌った。西本嬢とみずほ嬢のコーラスも心地好かった。歌い終わって拍手をいただき、「江古田スケッチをご存知の方?」と、会場に振ってみた。すると、32年前のレコードジャケットを高々と頭上に掲げられた方がおられた。訊けば、長野から駆けつけてくださったらしい。素直に感動した。だが、絶句してはいられない。僕は「江古田スケッチ」を歌いに来たのだ。百倍の勇気を貰ってギターのイントロを弾いた。初めての方にも聴いて欲しい、と、多少気負ったかもしれない。何とか無事に歌い終わってステージを降りた。暖かい拍手の波は、僕の心を綺麗に洗ってくれた。僕の方が拍手に癒されている、こんな感覚は初めてだった。竹内緑郎は幸せな1日に帰って来た。

 歌う機会を与えていただいたぺぺ田代さんに、あらためてお礼をいいたくて夜中に電話をかけた。当然留守電だった。留守電には緊張して思いの10分の1も吹き込めなかった。コンサートの立ち上げから構成演出にいたる全てを仕切っておられたぺぺさんを思うと、ご苦労様でした、という言葉しか残せなかった。先ほど電話があり、何とか想いは伝えられたような気がする。

 今日から再び朝倉薫に戻り、締め切りを延ばしてもらった原稿書きに入る。電話やメールに出ないとしてもお気を悪くなさらないで欲しい。頑張っているので。

PEPE TASHIRO CONCERT2010

 時間は待ってくれない。もうすぐ赤杉卓磨くんが迎えにくる。僕は車に揺られて池袋にある自由学園明日館へ向かう。そこにはオールラウンドギタリストぺぺ田代さんが待っている。今日は彼の晴れのコンサートだ。聴きに行くだけなら、さぞや楽しい気分だろう。2時間のギターコンサートの中でフォークコーナーというのがあり、僕は竹内緑郎として2曲も歌うことになっているのだ。先日骨折されたばかりのさくらカフェ綾子嬢まで聴きに来てくれるという。西本嬢など、月島もんじゃ祭りの出演をキャンセルしてまでコーラスで参加してくれる。赤杉卓磨くんなど、引越しの最中だというのに、わざわざ車で迎えに来てくれるのだ。玄関のチャイムが鳴った。片山竜太郎くんがローディを勤めにやってきた。さあ、行かずばなるまい。開演は15時である。

AUTUMN LEAVES

 シャンソンの名曲”枯葉”をエリック・クラプトンがジャジーに歌っている。耳当たりが良いので原稿を書きながら流している。いつの間にかCDに合わせて鼻歌で歌っていた。そこで、あることに思い当たって、原稿どころではなくなった。劇団の後藤享に電話をして彼の10周年記念公演用の脚本の締め切りを一週間延ばしてもらった。OKしてくれたので、ほっとしてギターを取り出し、マイケル・フランクスのアントニオソングを、ボサノバではなくシャッフルで弾いて歌ってみた。何十年も歌っている歌が新鮮に聞こえた。なるほどね、歳を重ねるとはこういうことかと、ひとりで感動した。

 昨日、秋葉原のスタジオでコーラスの西本嬢とみずほ嬢とで練習した。スタジオを出ると、さくらカフェのオーナー綾子嬢からメールが入っていた。何事かと開くと、コンサートを聴きにいった会場で腕を骨折し、救急車で運ばれたとあった。で、先ほど八竹の茶巾寿司を持ってお見舞いに行ってきた。喜んでいただけたが、肩から吊るした包帯が痛々しかった。明日絶対に聴きに行くからと言われて嬉しかったが、無理しないでと言ってきた。木登り名人の話をしたばかりだったので、本当に何が起こるかわからない。利き腕の骨折なので、しばらくカフェはお休みにするらしい。

 枯葉は風に舞い、窓辺に落ちる。秋の夕暮れにクラプトンのAUTUMN LEAVESは似合いすぎる。僕はアントニオソングをシャッフルで弾いて独り歌う。誰も聞いてはいないのが、また自虐的でもの哀しい。友人から、独り新宿を彷徨っている、とメールが来た。彼は正式な鬱病の証明書を持っているので、僕は時々(いけないことだが)羨ましく思ったりする。新宿まで届くことはないが、彼のためにアントニオソングを歌おうと、少し声を張り上げた。