誰が決めたか月末!

 6月30日、今年の折り返し点。

道行く人の肩越しに見える青空。

手を差し伸べてくれる人がいて、生きている。

銀行は長蛇の列、雨があがったのがせめてもの救い。

感謝してみたら、 

空が少し夏の色をしていた。

海が見たいと言った妹の、

笑顔が浮かんでいる白い雲。

「劇団の終焉を見に来たよ」毒づいて帰った、

心と裏腹のことしか言えない刎頚の友よ。

嗚呼、誰が決めたか月末!

友情、ひたむきな愛 、そして夢と希望

 舞台「月光の不安」制作発表がニコニコ動画(アイパイ★ちゃんねる)で実況配信されるというので、打ち合わせに参加した。10年ばかり前IT通の友人が「そのうちテレビの地上波放送は消えるからね」と言っていたのが、現実になってしまいそうだ。携帯電話の進化も加速している。SFの世界を舞台にしながら、僕の実生活がほぼアナログなのを実感した。ネット世界か…。

 しかし、面白いのは、インターネットの精神世界、つまりゲームや携帯小説のテーマが昔と変わらないことだ。「友情、ひたむきな愛、そして夢と希望」少女漫画や少年漫画のコンセプトそのものではないか!それなら恐れることはない。「月光の不安」だって、ひたむきな愛と友情の物語だ。劇中、日頃はチャラ男の谷川が友人萩原を庇って吸血鬼に倒されながら言う「何故助けたかって?今だからさ、だって、大人になったらいろいろあるじゃん、しがらみってやつが…」

 明日は初めてキャストが全員そろって読み合わせに入る。ワクワクしている。やっぱり僕は芝居が一番好きなのかも知れない。何を言ってるんだろう!当然のことなのに。少女人形舞台は、目指していた舞台芝居に近づいている。夢と希望をもって作り続けよう!

夢衣

 薄藤色の、更に色あせた古いタオルケットを捨てられずにいた。夏場に使うだけだが、はじめの何年かは、もらい物なので大切に使っていた。いつの頃からか、午睡にそのタオルケットを掛けると、不思議な夢を見ることに気付いた。夢の中で、ブルースハープの上手い19世紀の海賊になったり、留学先のリヨンの街で人を殺して牢獄に閉じ込められたりした。酷いのは、空を飛ぶスクーターに乗った銀行ギャングのボスになって、米軍の戦闘機に撃ち落された夢だ。ソファーに跳ね起きて、午睡に見る夢か!と、ひとり毒づいたりした。

 勿論、新品でいただいたのでタオルケットに曰く因縁があるはずもない。何処にでもある、タオル地のいわゆる普通のタオルケットだ。10数年前、面白いように仕事が順調で、すぐそこに忍び寄っている私生活の崩壊にも気付かない間抜けな時代があった。その夏の間に午睡で見た夢を繋ぎ合わせて、「13番目の旋律」という、不可思議なビデオグラムを制作(発売はポニーキャニオン)した。12のショートストーリーは、くだんのタオルケットを掛けてソファーで午睡したときに見た夢だった。マニアック過ぎて話題にもならなかった。

 そのタオルケットが、この2、3年、何処に収納したのか、どうしても見つからない。記憶を辿ると、アトリエ公演「ミッドナイトフラワートレイン」の舞台で寝具として使ったところまで思い出した。「ミッドナイト…」は何回もアトリエで上演しているので、いつの舞台か思い出せない。いらない衣装として捨てたのか、何処かのぼて箱(衣装ケース)に収まっているのか、見当がつかない。何枚もあるタオルケットの中から、その夢衣(ゆめごろも)が判るのは僕だけだ。

 夏が近づいて肌が汗ばむと、昔を思い出したりする。夜釣りに使ったアセチレンガス灯は田舎の家の屋根裏部屋に今も転がっているはずだ。もう、父と夜釣りに出かけることも出来ない。朝もやの中、起きて待っていてくれた母に逢うこともない。だからこそ、今、共に夢を語れる人を大切にしなければならないのだ。人生は束の間、儚いガス灯の焔に照らされた幻燈写真だ。焔が消えれば闇の中、涙に溺れようが戻っては来ない。

 新しいタオルケットをプレゼントされそうな、そんな気がする。6月はあと3日である。8月公演「月光の不安」の主題歌「薔薇の約束」の歌詞を作曲の神津裕之さんに送って曲の発注をした。「限りなく美しいメロディの曲を」と、言わずもがなの注文をした。何も云わなくても、いつも注文以上の曲が仕上がってくる。神津さんは「たそがれロンリー」以来、20数年も僕の詞に曲を書いてくれている。大ヒット曲があってもおかしくない作曲家なのに、きっと、作詞家と歌手に恵まれないのだ。ん?藪蛇だった!

 

雨の宝塚

 演歌のタイトルみたいだな…

 午後からスタッフ集合で、8月公演の舞台照明、音効、装置の打ち合わせに入った。まだ時間はたっぷりあると思っていたら、一ヶ月余に迫っていた。来週の火曜日29日には制作発表が控えている。当然のことだが、時間は待ってくれない。時間という規則を作っておきながら、無常だの非情だのと嘆くのは僕ら人間側の身勝手だ。時間には何の責任もないのである。

 と、悟ったようなことを云いながら、その実焦って仕事をしている。ローソンチケットのLコードが取れて、チケット発売開始も6月30日に決まった。稽古に専念出来るまで、まだ裏方の仕事がたくさん残っている。それも零細劇団の宿命である。

 と、嘯きつつ、いよいよ明日は宝塚記念。関西地方は雨の予報が出ている。九州の知人から、予想はまだかと催促があった。予想は楽しむもので、当たり外れは時の運だと思うが、ダービー、安田記念と連勝しているので、期待も高まっているようだ。’99年の宝塚記念で人気のスペシャルウィーク(今回人気のブエナビスタの父)を一騎打ちの末に破ったのがグラスワンダーだった。今年の宝塚記念にグラスの仔が出走してきたら迷わず本命にするつもりだったが、何と、2番アーネストリー、6番セイウンワンダーの2頭が出てきた。アーネストリーの母の父はトニービーン、セイウンワンダーの母の父はサンデーサイレンス。好きなのはトニービーンだが、セイウンはワンダーを背負っている。

 と、迷っているところへ、例の友人から「18番ドリームジャーニーの3着が決定である」と、自信満々の情報が!そうだ、’99年のレースの3着は確かステイゴールドではなかったか?!ドリームジャーニーはステイゴールドの仔である。僕は3着にマーべラスサンデーの仔4番スマートギアか天皇賞を1番人気で6着と裏切った13番フォゲッタブルを考えていたのだが、友情を取るべきだろう。九州の知人には、1着2番2着8番3着18番の三連単を薦めておいた。しかし、僕は6番セイウンワンダーに未練がある。こういうときは、外れることが多い。したがって、6番の単勝1本が爽やかであろう。

虫も殺せない…

 盆が近づいたので、最近気になる話をひとつ。

 女性の方には当たり前の話なのだろうが、男性諸君には笑われるような話である。実は、10年前母が逝ったあと辺りから、虫が殺せなくなった。それまでは目の前に現れた一匹の蚊さえ生かしてはおかなかった。ゴキブリなど、見つけようものなら親の仇のように追いかけた。それが、どうしてだろう、蜘蛛や蟻、庭に舞う蝶を見ても、ふと母を思い出してしまうのだ。腕にとまった蚊が血を吸っても、何だか殺すのが躊躇われて逃がしてしまう。別に母が蚊に生まれ変わったと思っているわけではない。なのに、母の顔が浮かぶのだ。

 僕は唯物論者で、輪廻転生など全く信じるものではない。確かに、実家は代々浄土真宗だが、熱心に信心した記憶もない。強いて言えば、幼稚園もなかった戦後の山村で、お寺の行事にはこぞって参加させられたことぐらいだ。三つ子の魂百までというから、幼い脳に、無益な殺生を戒める説教とか、地獄極楽の絵巻図などが刷り込まれているのだろうか。

 「虫も殺せなくなったんだよ」

真顔で劇団員に話したら、

「面倒になっただけじゃあないですか」

と、一笑された。

 果たして、そうなのだろうか!大いに悩むところである。バカバカしいと笑わないで頂きたい。

朱いぐみの実

 父方の従兄弟で同い年の茂が死んだのは、1953年の6月だった。雨の日に、茂の家の裏庭にあるグミの実を二人で食べて、茂だけが死んだ。僕らは5歳で、双子のように仲がよかった。二人が食べたのは、まだ青いぐみの実であった。それから毎年、夏には真っ赤なグミの実が茂の家の裏庭に実ったが、ちぎられることはなかった。僕が中学に上がる頃、伯父はその木を切り倒した。

 茂には生まれたばかりの弟武士がいた。後年、僕は武士を弟のように可愛がった。ある年、どういう経緯だったか、武士が朱っかなぐみの実がびっしりついた枝をさげて遊びに来た。僕は、ものも言わずその枝をひったくると庭に投げ捨てた。武士には茂の記憶はない。しかも、青いぐみの実ではない。僕は何に怯えたのだろう。今も判らない。それから、武士とは疎遠になった。今ではお互い連絡も取らない。兄弟はいないが、父方母方あわせると20人以上の従兄弟がいる。戦国時代なら力を合わせて戦っていただろうか。いや、僕の我侭で、きっと滅亡していたに違いない。失くしたものは、どうしてこうも愛おしいのだろう。

セイヨウアジサイ

 アパートの玄関には数種類の紫陽花が咲いている。手入れも行き届いていて、心を和ませる。白い大輪の紫陽花の花は、蝶が群れなしてとまっているように見える。その紫陽花がセイヨウアジサイというのだと、今日知った。

 ドキュメンタリー映画で、蝶が群れなして木の枝にとまった映像を観たことがあった。玄関を通る度にアジサイを見ては、その映像を思い出す。あれは、アフリカだったか、東南アジアだったか、それがはっきりしない。鮮やかな蝶の映像だけが思い出されるのである。記憶の断片だと思っていたのが間違いで、そこだけが記憶のすべてかも知れない。そうなると、いくら場所を考えても思い出すわけがない。

 10数年前、花の名前を羅列するだけの詞でラジオドラマの主題歌を作ったことがあった。「花の咲く日々」という歌で、ただの羅列ではなく花言葉の意味を繋ぎ合わせて物語が進んで行くのだが、70数種類の花言葉から選んで書いて、大変苦労した記憶がある。その時は、花言葉の占い師でも出来そうな勢いだったが、数年もたたないうちにすっかり忘れてしまった。今では、自分の書いたその詞でさえ歌えない。かと思うと、50年前に作った歌を間違えないで歌ったりする。記憶の引き出しがどんなふうに整理されているのか判らないが、実に不可思議である。 

  

二年半ぶりの出演

 三年前の夏、麦藁帽子に下駄をつっかけて学芸大学前の千本桜ホールに芝居を観に行った。誘ってくれたのは、その後僕の芝居のプロデユースを無理やりやってもらっている渡邉裕二氏であった。その芝居に出演していて観劇後、劇場をあとにした僕らを追いかけてきて礼を言った女優が桜井まり嬢であった。

 その縁で僕の芝居に2度も出演してもらった桜井まり嬢が、二年半ぶりに復活する。と、いっても彼女は休業していたわけではなく、映画の主演にグラビア女優として活躍しておられた。8月公演「少女人形舞台・月光の不安」も、渡邉氏に無理やりプロデユースを依頼して、桜井嬢の出演が叶った次第である。久々の今回は、吸血鬼を恋してしまう理知的な美少女を演じてもらうことになった。

 その吸血鬼の役に抜擢したのが、これまた渡邉裕二プロデユーサー推薦の琳紗織嬢である。彼女はその名の通り、台湾と日本の血を持つ国際派女優である。しかも、5ヶ国語を操り、世界を飛び回る若き経営者としても有名らしい。二千年を18歳の少年の姿で生きる吸血鬼ルイを、どう演じてくれるか楽しみである。今回は劇団からも北原マヤ、西本早希の個性派女優が出演する。昨年暮れの公演で主役を張ってくれた早野薫嬢は吸血鬼と対決する少年マモル役、二千年を12歳の姿で生きる吸血鬼を正真正銘12歳のアイドル星☆美優が演じる。個性と個性のぶつかり合う激しい稽古が今から楽しみだ。他にも、16才の天才女優加藤瑠菜、三月公演で凛々しいガンマンを演じた満月あいり嬢、少女人形舞台の二宮ゆりえ嬢、相澤美羽嬢、新人舘恵美嬢、伊藤安那嬢らが出演してくれる。「月光の不安」の出演者が、ここに決定したことをお知らせする次第である。

ありがとう!だよね。

 数年前に真意が通じなくてもどかしい思いをしたことがあった。忘れかけていた昨日、廻りめぐって、目の前に現れた。そんな”巡る因果”を思わずにいられないことが、最近頻繁に起こる。嘘みたいだが、本当の話である。

 12年前、劇団存亡の危機に見舞われたときのこと、(単に僕に経営能力が欠如しているだけだが)公演の資金が底払いしてしまい、僕は絶望に頭を抱えた。そこへ、出版社から1本の電話。「請求書だしてもらわないと支払えないんだけど!」僕は経理担当のKを呼んだ。携わった出版物は10ヶ月も前のものだった。彼は答えた「すみません、請求書、出し忘れていました」

 僕は親しかった編集者に「すぐ振り込んでくれる!後で請求書送るから」と電話した。そしてKに言った「忘れていてくれてありがとう!」10ヶ月前にあったら、とっくに使ってるよね!

 何と!そのとき振り込まれた額は、足りなかった支払い額とぴったり一緒だった。僕は思った。何処かで誰かが、生かさず殺さず、首の皮一枚つながるように操作しているのではないか?と。それが今も続いているのは大きな問題だが…。

 「ありがとう」と喜ばれる仕事をしよう!という、成功者の言葉を「当たり前だろう」と、笑っていた。今は素直に、成功者の言葉に頷ける。悔しい思いも、残念なことも、ありがとう!なんだよね。無理して艱難辛苦を求めることはないが、試練が人間を磨いてくれる。ただ、他人はそう容易く昔を許してはくれない。長生きしなくちゃ!ね。

歴史よ、語らぬものを忘れるな

 仰々しいタイトルだが、たいしたことではない。サッカーのワールドカップにおもわず惹き込まれて、ふと思った。テレビや新聞も熱狂報道である。オリンピックもそうだが、ひとつの対象に対して世界の目が向けられるとき、何だか人類の平和が達成されたような明るさを感じてしまうのは僕だけだろうか。しかし、祭りは終わる。終わらない祭りなどこの世にはない。

 記憶の奥底の止まった時間の中にだけ、終わらない祭りがある。アセチレンガスの揺らめく縁日の夜、神社の境内で待ち合わせた浴衣姿の彼女が永遠に僕を待ち続けている。きっと、彼女の記憶の中では、きらめく夏の海で真っ黒に日焼けした僕が永遠に手を振っているかも知れない。大きな祭りは、大きな孤独を残す。

 実は、気になった映画があったので、昨日の午後、新宿でその映画「告白」を観た。まだ公開されたばかりなので、内容には触れないほうがよいだろう。まして、ワールドカップと一緒には語れまい。宇宙中継も出来る現代から僅か数百年遡っただけで、歴史は、語り継がれた大きな事件や人物しか残さない。網の目からこぼれる小魚のような語られなかった些細なことにも、美しい物語は存在したはずだ。僕は、どうもそこが気になってならない。