”アトリエDOLL”開設で、原宿、表参道、青山をひと夏探し歩いた。三十数年前稽古に通った劇団未来劇場のアトリエも、今は美容室になっていた。どうやら青山一丁目に落ち着きそうだ。
10月19日初日の「僕のマリィ」も、もうすぐ配役が発表できるところまで来た。12月公演、来春の20周年、後藤や真一の10周年、と、ずっと舞台が続く。
少女人形舞台も、青山のアトリエDOLLがスタートすれば、いよいよ表舞台に躍り出す。5年前15歳だった少女が、20歳になって静岡から上京する。運命の糸は、何処でどう絡んでいるのか予測もつかない。だから人生は劇的なのかも知れないが、一喜一憂の連続である。
九州へのとんぼ返りで、どうも夏風邪をひいてしまったらしい。身体がだるいと思考も鈍くなる。こういうときは下手に動かない方が身の為であるが、そうもしていられない状況でもある。
嬉しいお話をひとつ。先日舞台「月光の不安」にお越しいただいたギタリストのぺぺ田代さんのリサイタル(11月14日)に”江古田スケッチ”をぺぺさんのギターで歌えるらしい。うん?朝倉ではなく、竹内緑郎で依頼が来たのかな?聞くのを忘れた。
古い友人も新しい友人も素敵な人ばかりで、この歳になって有難味を深く味わっている。
ひとつひとつの仕事に懸命に取り組んでいれば、時間は過ぎてゆく。その積み重ねが10年であり、20年である。節目の公演が晴れがましく感じられるのは、一緒に汗を流してきた仲間がとても輝いて見えるからだ。
母の墓掃除をして来て一週間が過ぎた。ようやく今朝方、母が夢に出てくれた。
97歳の父は矍鑠として今尚、僕の行く末を心配している。母は夢の中で、父は電話で僕のことばかり心配する。情けないが、親不孝者の見本のような男である。
高齢者の所在不明の不祥事で、国民総背番号制どころか、全国民の身体にICチップを埋め込む、まるでSF小説世界のような提案がなされているそうだ。管理する側からすると、便利極まりないシステムだ。耳に番号札を付けられた牧場の牛や羊の映像を見ると、どうしても映画「猿の惑星」の人間牧場を想像してしまう。
クリーンで財産のない無能な宰相と、数十億の財産を持つ切れ者の政治家が、無能で財産もない世論という泡のような意見に左右されて選挙を戦う。その世論を操作しているのは、自分こそは日本の良識だと思い込んでいる高給取りの大マスコミ人たちだ。哀れな庶民には彼らの既得権闘争が見抜けない。19年間タダでは見せないと言って演劇を作り続けているが、大マスコミ人でチケット代を払って見に来てくれたのは、TBSテレビで「サラリーマン金太郎」を作っていた森田光則くらいだった。高名な新聞の記者は「俺から金を取るのか」と言って電話を切った。
電通の大プロデユーサーだったHとたまたま友人だったので、劇団の女優をCMに使えと頼んだことがあった。彼は言った。「お前の劇団女優を例えば三百万で使ったら電通の取り分は17%でいくらになる?」僕は答えた。「ご、五十万くらいか?」彼は頷いた。「じゃあ、売れっ子の女優を五千万で使ったら?」僕は引き下がった。大組織を束ねるHとは友人だが、遠い世界に住んでいることを認識させられた。
世論は戦争さえ後押しする。悲しい事実だが、開戦の夜ちょうちん行列で祝ったのは庶民である。特攻隊、学徒動員を万歳三唱で送り出したのも世論だ。45年7月、鹿児島の海に鉄砲を投げ捨てて熊本へ引き返した僕の父は、戦争が終わったので銃殺刑は免れたが、今も非国民と呼ばれている。
僕は自分の芝居をタダでは見せない。しかし、何度かチケット代を払わない人に見せてしまったことがある。そんなときは出演者に心で謝る。「ごめん、サルに見せてしまった」と。そうでも思わなければ、高いチケット代を払って観に来てくださったお客様に申し訳が立たない。
ああ、今夜は過激な発言になってしまった。こんなことはジャーナリストが書くことだ。だが、記者クラブ接待だの、背広代を貰っただの、白日のもとに晒されたら困るジャーナリストたちには小沢を叩くしか生き残る道がないとすれば、死んでも書けまい。何故、吉田松陰を殺した?何故、坂本龍馬を殺した?今度は小沢一郎を殺すのか?君は彼にどんな悪いことをされたのだ?保身に汲々とする醜い連中を、何故君は許すのだ?
少なくとも、出演料を貰ってしゃべるTYの知識人とやらのでまかせを、心を澄ませて聞くのが庶民には必要だろう。新聞にしろ週刊誌にしろ、同様だ。ICチップを埋められたくなかったら、本当の闘いを覚悟すべきだろう。
ところで、夢に出てきた母の言動はここに書くのを憚られるほど衝撃的だった。びっしょり寝汗をかいて飛び起きた僕は、放って置いた健康診断の受診票を捜して病院に予約をいれた。
一期一会という言葉がある。茶の湯の会に出席するときの、”一期(人生)に一会(一度の機会)とこころせよ”と、心構えとして使われてきた。座右の銘としている人も多い。若い頃なら「さよならだけが人生さ」と嘯く言葉も笑って言えたが、長く生きているとつい別れの辛さを思ってしまう。だから、尚更、出会いを大切にしたいと畏まってしまうようになった。もっと気楽に会えたら良いのだが…。
10月公演「僕のマリィ」の準備が始まり、また慌しい日々が続く。今日はジャック役をお願いしていたハムナプトラ田中さんにお会いして、出演を快諾していただいた。カキ氷の食べ方が少年のようで、実に微笑ましかった。
池袋に今年3月出来た「シアターKASSAI」で、10月19日から24日の一週間を予定している。いよいよ、朝倉薫演劇団20周年記念公演の幕開けである。「マケイヌバー」「男たちの日記」「ガラス工場にセレナーデ」「ミッドナイトフラワートレイン」は、絶対上演したい作品だ。
今回のブログのタイトルは、決して投げやりではない。だからこそ、出会いを大切にしたい。そして、こんな僕と一緒に芝居を続けてくれている劇団の仲間たちに感謝したい。5年、10年、20年、30年、いや、僕があの世とやらへ旅立ったあとも、僕の作った芝居を演じてくれたらこんな嬉しいことはない。ほんとうにありがとう!
沈みゆく夕陽に続く黄金色の道を歩いて行けたとしても、道が現れて消える僅かな時間では、たどり着く前にその道は跡形もなく消えてしまうだろう。やはり、西方浄土は、古人の書き残す通り、この世からは行けない彼方なのだと実感させられる。
♪ ランタン灯る館の窓に 沖の入日が恋しゅてならぬ
わたしゃ島原からゆきさん 歌う故郷の子守唄 ♪
九州女学院の生徒会長だった山崎幸子嬢のボーカルと僕のギターでデュオを組んで活動したのは、19歳のひと夏だった。信愛女学院の吉沢玲子嬢がマネージャーの真似事をしてくれて、RKKラジオで歌ったこともある。ギターを抱いて夕暮れのバスに飛び乗ったあの旅の始まりが、波乱万丈の人生の幕開けとは知る由もなかった。43年前に見た海と夕陽は、今も何一つ変わらず目の前にあった。
来年は劇団創立20周年である。後藤享と真一涼の在団10周年記念公演もあるが、20周年記念公演では、あれもこれもやりたい。「ガラス工場にセレナーデ」「桃のプリンセス」「男たちの日記」など等。なかでも、どうしてもやりたいのが「マケイヌバー」だ。北原マヤ嬢は、確か初演で58歳の役を演った。真一涼もいい芝居をした記憶がある。二人とも、もっと上手くなっているに違いない。この20年間で劇団に在籍した俳優、ゲストで出演してくれた方々にも声をかけたい。夢は膨らむ一方だ。
「好きな俳優たちと好きな芝居を作りたい」と、渡邉裕二氏に言ったら、
「どうぞ、赤字を増やして潰れてください」と、笑われた。
悔しいが、言い返す言葉が見つからなかった。だが、何と言われようと、19年間芝居を作り続けてきたのは、確かな現実である。北原マヤ嬢は第一期生、真一涼は第七期生、そして西本早希嬢は第十二期生である。第十五期生には司亮がいる。片山竜太郎、後藤享に佐藤龍星、休団中の劇団員を加えても十数人の劇団である。威張ることも卑下することもない。試行錯誤の中から「少女人形舞台」も生まれた。続けられることに感謝しながら、より楽しい芝居を目指そう!ライフワークとは、生きている限り続ける仕事なのだから。
写真は東シナ海に沈む夕陽。8月21日18時53分頃。この日の日没予定時間は18時58分だった。天草の西端下田海岸から撮った。
天草は8年前の夏、月を追いかけて日本中を旅して以来だった。その時のモデル小川晃代嬢は、いまやペトグラファー(ペットカメラマン)として活躍している。昨年三月の片山竜太郎記念公演には女優として出演してもらった。モデルとしても素敵だったが、才気あふれる女性である。
今回は母の墓を掃除するだけで時間はないかと思っていたが、友人の好意で天草から阿蘇、五木村まで廻ることが出来た。強行軍ではあったが、充実した旅だった。パソコンどころか携帯電話も通じない所が、まだまだ日本にもここかしこに残っている。すべてが文明の利器に晒されるのが良いのかは判断しかねる。旅をすると、不便を感じることは多々あるが、便利さだけが全てではないことにも気付かされる時もある。人間は我侭な生き物だね。
旅には一冊の本を持参した。イタロ・カルビーノ作「魔法の庭」(和田忠彦訳・晶文社刊)初版は1991年9月10日。小説への儚い望みを捨て、劇作に本腰を入れ始めた年である。僕は翌’92年、劇団を旗揚げした。20代で読み始めたカルビーノは「まっぷたつの子爵」そのものだった。深い政治思想の一人称小説と美しい言葉に彩られた寓話を同時に書ける稀有な作家だった。
足元にも及ばない僕は、せめて寓話の世界だけでも近づきたいと、せっせと劇作を続けている。政治には一切近づかないと決めたのも、カルビーノの作品を読んでからだった。ヘルマン・ヘッセで小説に興味を持ちカルビーノで小説を諦めた僕が、今もかばんにカルビーノを持ち歩いているのも可笑しな話だ。しかも暗唱できるほど読み込んだ本を読み返すなんて。
東シナ海に夕陽が沈もうとするとき、海は暫し息を止め、沈み行く果ての王座に続く黄金色の絨毯が揺れぬよう、その支配する全ての生きとし生けるものたちに号令を発した。鯨は深く潜行し、いるかたちは姿勢を正し、その全てが夕陽が滞りなく沈むことを願っているようだった。僕は傍観者からやがて儀式の一員となり、黄金色の絨毯が取り払われ、薄紫の幕が下りるまで静かに見送った。
フランスの詩人ギョーム・アポリネールの「ミラボー橋」に、
日が暮れて鐘が鳴る
月日は流れ私はのこる
という一節がある。
業平くん その四
あるとき、時の皇太后(五條后順子)が東の宮に住んでおられたが、その対西の宮に業平くんの想い人高子嬢が住んでおられた。(寝殿造りなので宮殿は左右対称に出来ている)順子さんは、高子嬢の父藤原長良さんの妹さんで、54代仁明帝の后になって55代文徳帝の母となったので、皇太后というわけだ。その文徳帝が高子嬢の父の弟良房の娘明子と結婚して出来た56代清和帝と高子嬢が結婚して57代陽成帝を産むことになる。だから、業平くんの恋は、結ばれない悲恋になるのは目に見えていた。しかも、どうも一方的な片思いだもの。何だか、歌を作るために恋してるんじゃ…。
と、まあ、例によって業平くん、想いを告げたくて通ってみた。ところが、正月も十日を過ぎた頃、高子嬢は何処かへ逃げてしまった。さすがの業平くんも、行き先はうっすら知ってるが、追いかけられるところじゃなかった。現代ならストーカーで訴えられるぞ、業平くん。
はじめは軽ーく誘ってみたら袖にされたので、盛り上がってしまったんだね。ちょっと自信過剰になってたかもねッ。で、一年が過ぎても諦めきれず、正月の梅の花盛りの頃、行ってみたのよ、性懲りもなく。近くの戸板もないあばら家で、立ったり座ったりして覘いてみたけど、すっかり去年とは様子が違って見えたのさ。それでも諦めきれない業平くん、板張りの部屋で、昇った月が西に傾くまでねっころがって、去年のことを思い出して歌を作ったんだ。聞いてよ、これがアポリネールも真似した、かも知れない名作、
”月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして”
”月は昔の月じゃないし、春だって去年の春とは違うのに、恋しいひとには会えないで僕だけが去年とちっとも変わらない身体を晒してここにいるのさ”
と、詠んで、うっすらと夜が明ける頃、泣く泣く帰っていったのである。とほほだよね。
片思いでこれほど盛り上がれるなんて、業平くんは生まれついての詩人だね。
ヘルマン・ヘッセが晩年、奥さんに離婚されて一人ぼっちでスイスの村に住んでるときのことをエッセーで、村の若い娘が川で水浴びするのを覘きに行ってムラムラするって書いてるのを思い出した。”詩人は、かすかな頭痛の感じから、千種万別な、視覚・嗅覚・触覚まで、その瞬間のすべての感覚を集約したものでなくてはならない”と、アポリネールが主張するより遥か千年も昔の極東の島でそれを実践していた業平くんは何て素敵な男だろう!
原文 その四
むかし、東の五條に大后の宮おわしましける、西の對に住む人ありけり。それを本意にはあらで心ざしふかかりける人、行きとぶらひけるを、む月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれけり。ありどころは聞けど、人の行き通ふべきところにもあらざりければ、猶(なほ)憂しと思ひつつなんありける。又の年のむ月に、むめの花ざかりに、去年(こぞ)を恋ひて行きて、立ちて見、いて見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷きに月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひでてよめる。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。
12月公演の原稿を書いているが、時間の過ぎるのが早すぎる。原稿書きが遅いほうではないはずなのだが…。8月公演が終わって、もう10日も過ぎた。9月はすぐそこに来ている。
あせっても仕方がないので、コツコツやるしかない。合間に書いている「業平くん」の方が面白くて、困っている。12月公演はミュージカル風なので、楽曲がたくさんある。早く書き上げないと、作曲の神津先生にシワ寄せが行ってしまう。そうだ、作詞だけ先に仕上げてしまおう!
陽射しは随分和らいだが、まだ照り返しが暑い。伐採をしなかったので、庭の木々が茂りに茂っている。それでも、風が熱いので効果はない。時折冷房を止めて窓を開けてみるが、数分と持たない。友人の山荘を借りて原稿を仕上げるといった手もあったが、8月公演の残務で慌しかった。この夏は、残暑と道連れの東京暮らしである。
業平くん、いよいよ道ならぬ恋にさまよいこんでいくのだが…。きっと出世は無理だろうな、と思わせるのがその三である。何せ惚れた相手が藤原高子嬢、藤原長良の二女で、後に清和帝の女御となり、陽成帝の母となられた高貴な女人である。噂ではなかなかの才女で美人だったらしい。
その三
あるとき、業平くん、惚れた女人(高子嬢)にひじき藻をプレゼントして次の歌を添えた。
”思ひあらば葎(むぐら)の宿に寝もしなんひじきものには袖をしつつも”
僕のことを本当に愛してくれるのなら、雑草の生い茂ったあばら家にでも一緒に添い寝をして欲しいな!寝具なんかなくても、衣の袖を引き敷物(ひじきものにかけたのさ、才気あふれるよね!と、思ったかどうかは知らないが)にしながら、ねっ。
ばらしちゃえば、高子嬢がまだ、帝の女御になっていない、若い頃のことだったんだけどね。
平安初期のこの作品は、後の源氏物語に多大な影響を及ぼしたと言われているが、物語=男女の秘め事、と、解釈すればすべての謎が解ける。どれが真実でどれが虚言かは、千二百年も昔のことなのでわからないが、きっと業平くんならやってそうだと思わせるところが実に興味深いところだ。春日の里の田舎娘から西の京の人妻、そして高貴な姫君へ、さあ、続きはどうなってゆくのか!?夜毎に物語るほんとうにまめ男の業平くん、何処へ行く!
原文
その三
むかし、をとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもという物をやるとて、
思ひあらば葎(むぐら)の宿に寝もしなんひじきものには袖をしつつも
二条の后のまだ帝にも仕うまつり給はで、ただ人にておはしましける時のこと也。
ファッソナブルというフランスのブランドの洒落たサングラスを手に入れたのは10数年前だった。映画ラストエンペラーで皇帝溥儀がかけていたような小さめの丸眼鏡だ。細いフレームが気に入っていたので、6年前老眼鏡レンズに入れ替えてもらい、愛用している。サングラスはもうひとつ、50歳の誕生日に神津裕之先生にいただいたレイバンが気にいっていたが、昨夏九州の実家に置き忘れて来た。レイバン特有の濃いグリーンのレンズがとても素敵だった。
先週、あまりに眩しかったのでサングラスが欲しくなって、新宿の眼鏡屋に寄った。並んでいる眼鏡はどれも高価で、ビンボー劇作家には手が出なかった。そこで、老眼鏡を取り出し、レンズの交換を頼んだ。親切な店員が、「度付きのサングラスはいかがですか?」と、僕の心を見透かしたように色付きのレンズを見せてくれた。グレーとグリーンとイエローの三色が10%~70%の濃淡で揃っている。しかも驚くほど安かった。そういえば、100円ショップでも老眼鏡は売っている。メガネはフレームが高価なのだ。僕は迷わず、グリーンのレイバンカラーで50%の濃度のレンズを注文した。
今日の午後二時、そのメガネが出来上がったので受け取りに行った。ファッソナブルの細いフレームが15年前のだと聞いて眼鏡屋の店員が「大切に使っていらっしゃるんですね」と驚いた。サングラスが老眼鏡になり、今度は老眼サングラスに変身した。しかも、遠近両用、手元も遠方も変わりなく良く見える。60センチ離れたパソコンが一番鮮明なように調整してもらったので、快適にキーボードが叩ける。室内が多少暗いが、慣れたら落ち着くだろう。それにしても、レンズの進化に驚いている。僕は近視ではなかったのでコンタクトの経験はないが、そちらも随分進化しているらしい。
朝から赤杉がやってきて一日行動を共にしたが、面白いことを言った。業平君のブログを読んでの感想だが、「SEX=物語りだとすると、当時は”物語”と発することは顰蹙だったんでしょうね?物語する?いやあん、恥ずかしい!なんて言ってたんですかね」僕は笑いが止まらなかった。前向きで楽天的な彼に何度も気持ちを救われて来たが、柔軟な発想もまた彼の面白いところだ。’01年のシアターサンモール公演「犬の妹」以来、僕の芝居の装置を作り続けてもらっている。アトリエも赤杉がどんどん進化させている。僕の芝居はどうなのだろう…。
桓武帝延暦三年(784)に奈良から長岡へ遷都、更に十年後の延暦十三年(794)平安京へ遷都がなされた慌しい時代。にもかかわらず、業平くんはセッセと恋に励んでいた。
その二
平安京は、都の中心を南北に朱雀大路がつらぬき、その西側を「西の京」「右京」、東側を「東の京」「左京」といった。出来立ての都はまだ人家も安定していなくて、西の京は低湿地のため発展が遅かったらしい。
その西の京に凄い美人が住むと聞きつけた業平くん、さっそく逢いに行ったわけだ。その女人、逢って見ると容姿ばかりか心根も素晴らしかった。しかし、どうも独身ではない様子だった。きっと夫がいるに違いない。当時は通い婚なので、始終夫婦が一緒にいることはない。
現在でもヒマラヤの秘境には女人国があり、通い婚で10人以上も夫がいる女性もいるらしい。1200年も昔の日本も似たような結婚制度だったのだろう。
しかし、美女を目の前に引き下がる業平くんではない。夜の帳が下りてしまえば下半身に人格はなくなる。めくるめく一夜を共にして、翌朝ふらふらと帰ってきた。
ちょうど陰暦3月の月初め、そぼ降る雨を眺めながら、誠実なな業平くんは、女人の夫に気兼ねしてどれほど心を乱しただろうか。というのだが、やっちゃってから悩むなよ、と突っ込みたくなる色男の所業である。詠んだ歌が、
起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ
* 昨夜あなたと一晩中睦みあって、春の長雨をながめながら今日は一日ボーっとしてくらしているよ。
原文
その二
むかし、をとこありけり。ならの京は離れ、この京は人の家まださだまらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、かたちよりは心なんまさりたりけり。ひとりのみもあらざりけらし。それをかのまめ男、うち物語らひて、帰り来て、いかが思いけん、時はやよひのついたち、雨そをふるに遣りける。
起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ
*物語=男女の秘め事 平安時代に生きていないので推測するしかないが、SEXを”物語”と書いて理解されていたのなら、僕らの先祖は何とお洒落で美しい頭脳の持ち主だったのだろう。